「人手不足」という言葉は便利だ。現場の非効率を直視したくない管理者にとっても、社会の構造改革を先送りしたい政治にとっても。だが現場をよく見ると、人手不足以前に“人の使い方が下手すぎる”という場面が多い。
🚧 ガードマンという日本的風景
工事現場の片側交互通行を仕切るガードマンは確かに必要だ。交通量、視認性、道路形状──人間の判断が不可欠な場面はある。しかし商業施設の駐車場の出入り口に立つガードマン。ただ突っ立って、車の流れを止めたり、逆に混乱を招いたりするガードマン。あれは本当に必要なのか?むしろ危険を増やしているケースすらある。あの配置は「安全対策」という名の儀式であり、責任回避のための保険であり、“人が立っていれば安心”という昭和的な精神論の残骸だ。
🧱 なぜ無駄な配置が消えないのか
無駄な人員配置がなくならない理由は三つある。
- 責任回避文化 — 事故が起きたとき「ガードマンを置いていました」と言えることが重要。実際に役立つかどうかは二の次。
- 規制の惰性 — 古い基準がアップデートされず、現場は「とりあえず人を置く」ことで安心を買う。
- テクノロジー導入の遅れ — センサーや自動ゲートで代替できる場面でも、人力に頼り続ける。
この三つが絡み合い、「人手不足なのに無駄な人員配置が減らない」という矛盾が生まれている。
📉 人手不足は本当に“不足”なのか
実際のところ、日本の労働人口は減っている。しかし同時に、人手不足を自ら作り出している業界も多い。
- 無駄な配置を見直さない
- 業務を細分化しすぎて非効率
- テクノロジー導入を渋る
- 賃金を上げず、人が定着しない
これでは「人手不足」と叫ぶ前にやるべきことがある。日本社会は「人が足りない」のではなく、“人を賢く使う発想が足りない”のだ。ガードマンの過剰配置はその象徴であり、人手不足という言葉の裏にある怠慢を可視化している。
📝 終わりに
人手不足とは、労働者が足りないことではない。足りないのは無駄を削る勇気と、効率を追求する知性である。ガードマンが立つべき場所と、立つ必要のない場所。その区別すらできない社会が「人手不足だ」と叫ぶのは、自分で蛇口を開けっぱなしにしておいて「水が足りない」と嘆いているようなものだ。


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